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YASUのプロフィール 

名前:YASU

所在地:静岡県東部 富士山が見える町

趣味:筋トレ、料理、旅行などなど

好きなもの:甘い物

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このブログで伝えたい事は、英語で自分の世界を広げてほしいということです。もちろん、ネイティブ並みに流暢に話せたら最高ですが、はっきり言ってその必要はないです。

もちろん、ある程度のレベルは必要ですが、仕事でどの程度まで使えるかという事です。あと一つの山を乗り越えると、あとは次のステージが見えてくるので自分のレベルが上がります。

その時はもうすでに自然と流暢に話せるようになってきています。

まずは初めの壁を乗り越えてください。

かという自分はというと、、。ある程度のレベルまで行くことが出来ました。明確な数値はありませんが普通に会話出来ますし、交渉も出来ます

何より、話すことに全く抵抗がありません。

そうなった自分の経緯とこのブログを書く人となりをみてください。


高校3年生までは、地元静岡の進学校に通っていたごく普通の高校生。部活は昔でいう帰宅部で、やる事と言えばヤオハンでバイト三昧、少林寺拳法をやっていたので週の3回は道場に通っていました。(結果的には10年くらいやってました)

その後 急に大学進学を思い立ち受験するもすべてダメ。これは何とかしないとダメだと思い、当時めちゃくちゃ厳しいと言われた「両国予備校」に入学を決意。

まさに、東京のおばさんの家で下宿生活するも、あまりにも厳しい予備校で今では完全だめですが竹刀持ってる先生がうろうろしていました。とにかく1日15時間は勉強しろ!というのが当たり前の予備校でした。

今でも覚えています。8時30分以降に起きたのが、元旦と7月17日の自分の誕生日の日だけでした。あとは毎朝6時から夜中の12時くらいまで。こんな生活は2年はできない。何が何でも合格しないと、、。その想いで何とか第二希望合格。でもこの時点で、暗記型勉強の限界を感じていました。

でも、人生の転機はこの時すでに培われていました。

この一年で大学合格よりも、類まれな忍耐力が付くようになりました。ある境界線のようなものを超えることで人生の質が濃くなってきたと感じる。

その時、量をこなさないと質に転換できないと実感する。

19歳で植林プロジェクトに挑戦:フィリピンで約2か月過ごす。

あれは一枚の募集チラシが始まりです。

確か、大学の掲示板の隅の方に大学生でフィリピン植林募集という広告を見つけ、その時航空チケット、滞在費が込みで7万円!という項目は今でもはっきり覚えてます。

その時は、

自分
自分

海外に7万円で生活もできて飛行機代もでる!これは挑戦したい!!何か違った体験ができるかもしれない!

単純に想いはそれだけでした。深い意味は全くありませんでした。

当時のフィリピンはまだ貧しい国で日本人である私たちは非常に尊敬され歓迎されました。田舎に行けば行くほど国賓扱いです。

それほど、日本人はよく見られていました。当時はよくわかりませんでしたが、先代の日本人がその地で残してきた功績が根強く残っていたのです。

歴史が日本人を賛美してくれてたのです。日本人ってすごいだ。先祖の残してくれた功績でこの人たちの生活をよくしてくれたんだと思ったものです。日本の歴史、文化に興味を持つ

もっと世界を見たい!感じたい!世界で戦いたい!と漠然と思うようになる

2000年前後に世界の広さを知りたくなる

帰国後、猛烈に世界を知りたくなる。同時に日本の文化、歴史も知りたくなる。

フィリピンのあの歓迎は一体なんだ!!先人が残してくれたものはなんだ!

これも海外に行ったという経験がある種の境界線を越えました。そう、外人が怖くなくなったのです

何事もあの時やった試験の問題より、経験した時の事の方が焼き付いて昨日の事のように覚えています。だから体験と座学の両輪で行かなければならないと実感。

猛烈に、日本の歴史の勉強しました。猛烈にバイトしました。

その時、中学から続けていた少林寺拳法の道場に一人のアメリカ人が入門しました。

アンソニー

そう、彼こそが僕の人生を変えてくれたのです。

でもきっと、皆さんの周りにもそういう方がいると思います。気づくか気づかないかの差だと思います

始まった外人とのシェアハウス

今はシェアハウスという概念は身近にありますが、今から25年くらい前には外人とシェアハウスする人って案外 変人扱いされていました。

でも、アンソニーの紹介で初め下見した時に下駄箱に「鈴木」「小林」って名前があったから日本人もいるから安心だね!と勝手に推測していたら住んでビックリ!もうその人たちはいないと判明!

15人のうち14人が多国籍(アメリカ、カナダ、オーストラリア、イギリス人の構成)

日本人は自分だけ!!

しかも、当時はNOVA英語学校が急成長していただけにみんなNOVAの先生。つまりNOVAの先生の寮だったのです。

そこから始まった共同生活。女性男性が混ざった生活。初めはわけわからないです。

でも次第お互い分かり合えて、上手な距離感を取れるようになりました。

間合いというか目に見えない何かです。

人間関係は必ず築ける。例え言葉がそんなに流暢に話せなくても最後は心の通い合いです

そんなこんなで外人との不良生活は始まり、

覚えてた英語はスラングばかりでとんでもない講師兼友人立ちでした (笑)

留学したいと漠然と思い始める、、。

1年くらいそのハウスで暮らしながら留学という文字が頭を横切ってきました。

自分は政治学部、英語の世界とは全く違いましたが猛烈な追い込みで交換留学のような形でカナダに1年留学できるようになったのです。

ここでお伝えしたいのは、環境は人間を育てる。もし自分が何かやりたい、したいと思った時は自分をできるだけそれに違い場所にもっていくのが最短だと思います。

自分は14人の外人の中で一番きれいな英語を話すカナダに行きたいと思いカナダ留学を決意しまいた。

それから、畑違いのTOFLEの勉強を猛烈にしましたけど、たぶんアンソニーに出会わなかったがまずその未来はなかったでしょう。

だから、出会いは大事なんですね

カナダ留学始まる

大学の留学制度に滑りこみセーフ。

大学ではイギリス、カナダ、中国、インドネシアなどの留学制度がある。カナダは8人カレッジに入る制度です。もちろんホームステイで各人別の家で過ごし、学校では英語やらなにやら徹底的にやる。

8人のリーダーに選出された

英語が得意なわけでもなく、他学部の異色の人間がリーダーになってしまった。正直な話で「あんた達の方が英語学部でコミュニケーション取れるでしょ!」というのが本音でしたが、快く引き受けた。

代表でスピーチ、代表でなんとかすべて英語。

その時はすごく大変でしたが今となってはいい経験

つらかった英語学習でも、実は英語で世界観が変わってくるのです。

とにかく、量が膨大でした。1日13時間くらい英語ばかりで、、。色々が勉強しましたが比較文化、歴史もやったりして感じたのが、カナダは歴史と言っても300年くらいしかなくめちゃ浅くて インディアン、トーテンポール、、。現代みたいな。 深みがない、、、。

自分
自分

それに引き換え、日本の歴史を英語で勉強したりすると、深い~

基本的に侵略された事がない国なので、その精神論などの深さが歴史で感じ取れます。きっと外からみた日本の良さを英語を学ぶことで知ったのかもしれません。

つらかった食事時間

食事時間はほんとに大変でした。多分日本人と共同生活していると感じませんが、あの家庭は食事中に1人話をするというのが決まりルールでした。

自分
自分

そんな事が辛かったの?? とか思われるかもしませんが、ご飯食べながら話をするんですよ!! 考えながら💦 もはや食べた気がしません。

とにかく些細な事でも文化の違いを感じて、今になったらいい経験としか言いようがないです。しかしホストマザーがシェフでしたので色々な話やら料理を食べせてもらった事はいまでもいい思い出ですし、いまだにあの時食べたグレービーソースは覚えています。

カナダ横断

もはや、数か月も住んでいると図々しい人間になります。バンクーバからトロントまで横断してしまいました!!もう英語に対してなんの恐怖とかためらいもないのです。

それでいいと思います。

語学を学習する姿勢、気持ちは行動を促します。それが人生の大きな転換期を導いてくれるのではないでしょうか。これから アメリカに行くのでですがこういった挑戦する気持ちはこの時に芽生えたのかもしれません。

すべては英語からの人生転換です。

アメリカで戦う決意

英語学習のの世界がこんなに膨らんでしまいました。

皆さん、ここには大きなポイントがあるのです。多分自分が英語だけの学習をやっていたらこんな色々な挑戦をしなかったと思います。

英語学習と同時に歴史を学んだのです。それも一つに集中しました。

司馬遼太郎です。

彼の本は非常に正確な歴史に基づいています。本屋に司馬遼太郎の本ありますよね。

あれ8割すべて読みました。3年くらいかかったと思います。

自分
自分

ここで、自分が言いたいのは英語を学んでこうなりたい!!という願望を持つことが大事だと思っています。自分は日本人の心を学び、アメリカでここに侍あり!日本人を誇り外人に伝えたかったのです。

すごく抽象的な事ですが、当時はそういう真の日本人がアメリカで活躍する。それが自分も目標でした。

ただ英語だけをやってきたら芽生えてこなかった想いです。

寿司職人という選択

もう頭はアメリカことでいっぱいです。どうやったら渡米ができるのかをずっと考えていました。が考えても考えても答えは出てきません。

一つ分かった事がありました。寿司職人になればアメリカに行けるという、もはや幼稚園並みの選択肢でした。

3年で寿司職人にするという会社に入社しながらふつふつと渡米計画は進んでいます。でもどうやったらいいのかさっぱりわからない。

でも寿司の技術だけは確実に上がってきました。これだけはやっておかないとの思いで当時は当たり前の18時間くらいは働いて働いてとにかく3年から5年で寿司をマスターしないと!!という想いだけでした。

そうしていくうちに、日比谷、表参道、日本橋などの店舗の店長、職人を経験してそれなりになっていったのです。

でも、英語学び、アメリカいきたいなと思わなければ寿司をやっていませんでした。英語の原動力はすごい。人生の経験値を上げてくれました。

アメリカ在住のとある日本人にあう

当時はまだネットもそれほど発達していませんでした。例え使えても情報発信する側もまだそれほどいなかったのではないでしょうか。

その時、本屋でたぶん2センチ位の記事の端に「アメリカ渡米働く」みたいな記事を見つけ、そこに早速電話です。

働くにはまずどういしたらいいのか、そのからのスタートです。

西新宿の小さな事務所にいき、65歳くらいの初老の方に自分の熱意をつたえました。なぜアメリカにいきたいのか、アメリカで何したいのか。答えなんてありません。

とりあえず行きたいのです。アメリカにしかアメリカンドリームはないですから。

その方が言いました。

あなたの熱意は伝わりました。

では今度アメリカからくるある人を紹介しますが、

その方があってくれるかどうかはわかりません。

あなたの熱意を何かに書いてきなさい、それを彼に渡して良いようでしたら連絡します。

あなたの熱意は伝わりました。

その後、自宅で4ページ近いレポートを書きました。言葉がどんどん出てきて流れるよに言葉が書けるのです。

郵送した数日後に連絡が入りました。

あなたに会ってもいいという連絡をもらいました。日時は○○日〇時に帝国ホテルのTOPGUNというカフェに来てください。

こういう連絡です。

ぅて帝国ホテルっていったことないです。

ここまでの出来事は、初めて英語に興味を持った時からの延長です。すべて繋がっています。英語を学ぼうという想いが人生までも変えてしまったのです。英語を学んでいなかったらきっとなかった世界です。

渡米までの準備

段々計画が具体的になると、自分が何をやるべきか明白になってきます。

・寿司の技術を計画的につける

・レストランマネージメントを計画的に学べる環境に自分を置く

・英語を会話中心にする
(当時はオンライン英会話スクールと言いうものがなかったので浸るが外人の友達と話をしたり英会話スクールに通ったりしていました。)

やるべき事が明確になってくると物事が動いてきます。
この渡米は、後ろに会社があるわけでもない本当に綱一本で渡米するのと変わらないチャレンジでした。

しかし、まだこれは確定ではなく会社でいう内定をもらった感じです。

全て自己責任という重圧

ちなみに、この時点で私は結婚しています。
そして、奥さんは出版会社を辞めて私と渡米するという
もはや冒険でしかありません。

その事決意して伝えてから、奥さんは少し戸惑いながらも同意してくれました。
実はこの前にドイツに行く予定でもありましたが、さすがにドイツはドイツ語だけに自分にも不安しかないといった状態。

ロシアにも行きたいとおもっていましたが、さすがに奥さんが呆れていたのをいまだに覚えています。

最近、その話をしたら
「この人、本当はやばい人かもしれない」と思っていたようです。

私としたら単なる好奇心のかたまりなのですが。

責任を果たすための下準備と英語の準備

それから、きっと2回ほど渡米しました。
シアトルにある世界でも有名なホテルの1Fに位置するそれはそれは大きな日本食レストランでした。

何度も行ったことがあるアメリカも今度はまったく違った国に見えてきたものです。

遊びでも留学でもない仕事という役割を担っていく重さを感じたのは
このころからです。

英語の勉強もめちゃめちゃしました

Yasu
Yasu

しかし、結果的には学んだ英語は全く使わなかったのです。

というか 教科書英語を使った記憶はほとんどありません。
それは、日本にいる時もそうでしたが結局普段友達と話をしているよな英語しか使わなかったのです。

段々現実味をおびてくると、もはややるしかないといった状態に追い込まれます。

そこからはほんとに記憶にのこっていないくらいに必死だったと思います。

本当に、あまり記憶がないのです。
たまに、あれは夢だったのかなと思う時があります。

いつ飛行機にのったのか、いつ現地で住み始めたのかもあまり記憶に残っていません。

でも 覚悟だけはありました。

日本を飛びだそうという。

覚悟の決め手

なぜ、僕はこういう人生を選んだのか
この時深く考えた事を覚えています。

今から約25年も前の話ですが、
その当時から多くの日本人が海外で活躍していました。
僕もその中の一人になるのです。

多くの日本人が色々な事情で日本を離れていったでしょう。

私もその一人です。

別に日本が嫌いではありません。

めちゃ好きです。
世界一安全で住みやすこの国は最高だと思っています。
しかも、日本人は勤勉で努力家そういったレッテルが世界にあった時代です。

だからこそ、出たかったかもしれまんせん。

そういった勇気は歴史から学びました。

司馬遼太郎の話をしましたが、僕の卒業した大学は決して偏差値が高い所ではないです。
拓殖大学で昔は台湾に日本人を派遣したりアジアに日本人を送り込んでいたようです。

高官というよりは野武士的な日本人を送り込んで荒れたアジアを整備していったイメージです。

別にその影響ではないですが、
そういった環境で明治から昭和にかけての動乱の時期をすごく学びました。

明治維新の急先鋒の長州藩の萩にも訪れ明倫館にもいき、
松下村塾にも行って歴史を動かした人たちを肌で感じてきまた。

高知の桂浜にもいき坂本龍馬にも逢い、
ずっと昔に歴史をひっくり返した人物から多くの事を学びそして、自分の勇気に変えていきました。

その時こんな事言ったかもしれません。

「あんた、凄いね。薩摩と長州をくっつけるなんて、
どっからそんな志が芽生えてきたんだい」

「あんたんがいなかったら、
今の日本ができるのがもっと遅れていたかもしれないわ」

「あんたが誰に殺されたかは、いまだに謎だけど、
あとの者が大政奉還を果たして新しい日本をつくったよ」

「偉い人達はみんな死んじまったよ、歴史の本では、明治維新の立役者をみんな、あの動乱の時代で死んで、残りカスが明治を引っ張っていったという人もいる。
確かにそうかもしれないね。前で身体張っている人達はみんな殺されちゃたからな。
あんた達の後ろにで身構えにいた人達が明治を支えていった。
でもこれも人それぞれの役割だったのかもしれないな」

きっとこんな事を言っていたかもしれません。

書けばきりがないのですが、アメリカに寿司職人として滞在していると
学生の時とは違った大人の体験を沢山します。

その中で忘れたくなかった事は自分が日本人であるという事。
英語もそれなりにできてくると、もう、それ以上の英語力というのは訓練あるのみなのです。

それ以上に大切なものが人間性、真面目さそういったもっと尊いものだったのです

僕より先に渡米していた職人さんは高校卒業と同時に寿司職人になって英語はもちろんサッパリだったようです。

自分の夢を求めて20代後半でアメリカきましたが、その彼の英語はまあまあそれなりでしたが、とにかく彼は人気者でした。

まさに彼の人柄が英語という財産よりはるかに上回っていました。

その時、改めて感じた事はビジネスで採用されたり、実績残すには英語は必須ですが決してそれだけではない

外交官や大きな会社の重要な役職に就く為に渡米したりするでしょうが、それってほんの一握りじゃないかな?

多くの人は技術職、その英語+アルファのスキルを持った人が渡米などして仕事をするのではないでしょうか?
英語という語学を活かして渡米する人はそんな多くないじゃないかなと感じたのです。

そうすると、英語は現地でも徹底的に学べるが、人間性コミュニケーション能力というのは一日でできるものではないので、その部分をもって成長させなければいけないと思い始めたのです。

だから、これからの英語学習者は英語だけでなく、文化、歴史、他主教の考え方、ロジカルに考えられる能力が必要だと痛感したものです。

アメリカ人は、私個人の意見というものをすごく聞いてきた、それに応えられない自分を恥じた事もあります。

改めて日本の文化や歴史を勉強しなおしたことが多々ありました。
これは英語でどんな言い回しするんだろ、
俺だったらこういう事を言うなと

それを英語で考えて英語で応える練習を何度もしました。


一度この辺で話し終わりにしたいと思います。

今回、このプロフィールで伝えたかったことは、英語を通して自分の人生観、価値観、将来というものが変わっていったという事です。

単に英語を話せるというだけでは何も変わりません。しかし、自分を変えていくためのツールとしての英語であれば、いくらでも自分の人生を変えることはできます

このプロフィールが皆様の英語学習意欲の一つのきっかけとなればと思い、長々と書かせていただきました。

次回、プロフィールとは別の意味合いとして書かせて頂きます

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